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女性医師たちの歩み

ある女性医師の生き方

井上 節子

私は大正15年8月、父は弁護士、母は産婦人科医(東京女医学校(現;東京女子医科大学)卒}の間に一人娘として生まれた。勿論可愛がられたであろうが、物心つかないうちから 「お前は大きくなったら医者になるんやで。」と、よく言われた。最初は何の事かよくわからなかったが長ずるに及んで自覚するようになり、友達からも言われるようになった。

高等女学校に入り、三年生の時に太平洋戦争勃発、物資不足、燈火管制等、国をあげての諸々の苦労は皆同じである。昭和19年に卒業し、同年何の迷いもなく大阪女子高等医專へ入学した。一年生も終わった春休み昭和20年3月14日大阪大空襲で、私の家は全焼し私は寄宿舎に入れられた。

昭和20年終戦、24年卒業、インターン終了後国試合格、その頃わが家も元の場所に復興した。そのうちに縁談が持ち上がり、婚家先も井上姓で、外科医の方と結婚した。私達夫婦は、籍は主人の方へいくけれど体は実家と同居する事になった。主人は内科外科開業。私は産婦人科をついだ。病室もあったので夜中はお産で起される。開腹手術があれば夫婦でする。大変忙しい日々であった。男児2人にも恵まれたが、次男が生まれた時は、母が夜中長男を引取ってくれた。もっと大変な苦労をしてこられた方、或は結婚や子育てもせずにひたすら研究に臨床に打込んでいられる方もあろうが、私と比べたら比較にならないと思う。

私は舅姑の苦労もせず主人とも大した喧嘩もせず自分なりに幸せな人生だったと思う。子供達もそれぞれ独立し、主人もなくなり今は一人暮しだが残り少ない人生を前向きに、感謝をしつつ一生懸命生きていこうと思う。

2009-2013 Osaka Medical Women’s Association.