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女性医師たちの歩み

自分なりに進む

巽 祐子

私は日本が経済高度成長期にあった昭和35年に兵庫県の姫路市で生まれました。両親の勧めるままに、西宮市の中学校を受験し、12歳から親元を離れての寄宿舎生活をしました。

奇宿舎では、九州・四国・愛知などからの生徒も合わせて中・高生15,6人が生活しており、早朝六時から掃除当番・食事当番があり、夕食後は静粛時間でテレビはなく、部屋内の会話はだめ、夜は11時消灯と決まっていてそれまでに宿題を片付けないといけないという、時間に追われた生活が6年間、このころに、いつも周りから[せっかち]といわれる性格ができあがったのかもしれません。

学校全体が小高い山一つ分だったので、自然が豊かで大変恵まれた環境での学校生活でしたが、寮から出発する遠足のお弁当の中身が貧弱で恥ずかしかったのと、家庭科の縫物がいつも仕上がらないので悲しくて泣いていたのを今も思い出します。

語学の道に進みたいと思い、高校3年の時にAFS奨学金でオクラホマ州の学校へ留学するチャンスをいただきましたが、当時、いろいろな高校からやってきた同期の留学生たちの語学力のすごさと一人ぼっちででも世界各国どこへでもいつでも飛んでいくといった度胸に驚き、自分にはそこまでの勇気はないと思いながら帰ってきました。その後両親の勧めもあって、医学部受験へと進路を変更しました。

内科系に進みたいとも思いはしたのですが、当直ができないなどで男性医師に迷惑をかけるのがいやで、当直の少ない皮膚科医を選びましたが、国立大阪病院の膠原病専門医のもとで研修させていただいたことは今も皮膚科医としての診療のあり方に大変役立っています。

平成5年前に皮膚科診療所を開業しましたが、平成14年から地区医師会理事の仕事を引き受けました。学校医としても、また産業医としても、皮膚科医にも、もっと活躍の場があってもよいはずなのに隅に追いやられている感があり、皮膚科医の存在をアピールしたいというのが理由でした。

現在は東大阪市内の医師会の副会長をやらせていただいていますが、地域包括ケアシステムの中での在宅医療(のみならず外来診療ででも)における多職種間連携の場で医師が率先して各職種の方々と協働して地域の医療を守っていけるよう、また、「皆保険制度」という、世界に誇れる日本の医療制度が崩壊することなく患者さんたちに平等な医療を提供し続けることができるように医師会役員としての活動をしながら日々、慌ただしく走り回っています。

力が入ると早口になってしまい、患者さんが帰られたあと、説明がわかりにくかったかなといつも思いながらも、熱くなってしまう性分はなかなかなおらず、反省しきりの毎日です。

2016年9月

2009-2013 Osaka Medical Women’s Association.