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女性医師たちの歩み

終わることのない学び

清水 聖保

今年からは働き方改革ということで、医師にも沢山の休みが与えられている。こういうと叱られるかもしれないが、今年医師になった娘は、4月に研修が始まり「早々に休みを取りなさい。」と指導を受け「早く帰りなさい。」といわれる日々だと話してくれた。

私が研修医であった頃は、カルテは日本語ではなくドイツで書くため単語を覚える毎日。シュライバーでその単語を書き、意味を覚え、医療や疾患を学ぶ日々だった。午前中は外来、午後は病棟、そして教授回診の準備、カンファレンスの用意など、一週間はあっと言う間にすぎる毎日だった。自分の勉強、つまり脳波を読む、ドイツ語で文献を読む時間が取れないまま、遅くまで医局での勉強会に参加したりしていた。ようやくルーチンの仕事を覚えかけた頃、当直が始まった。病棟のコールにも答えながら、外来に大量服薬やリストカットして現れる患者さんへの対応に追われる当直の日々。勿論、当直が明けたらすぐ朝から外来業務が始まる。こうして必死に二年間の研修を終えたものだった。

今やカルテは、誰が見てもわかるように日本語で書くこと、当直明けは休むこと、残業を増やさない、など様変わりしている。医者が休むことを働き方改革により強いられることから、大学病院でも他の病院でも土曜日の診察を月に二回にしたり、土曜日、日曜日は、完全外来は休みという病院も増えてきた。その結果、救急車のたらい回しもよく耳にする。今の現状は様変わりというが、きっと私の先輩の先生方は、もっと過酷な医療界の中でお仕事をされて、医学の進歩に勉強を続けて来られたことだろう。

私が医師になってめざしたのは、私の伯母で医師の須藤昭子の影響である。45歳からハイチという発展途上国といわれる医療がまだまだ行き渡らず結核で命を落とす人が多い国に渡り結核と戦い続け、一般の人々に初めて米軍基地からの払い下げのレントゲンで、貧しい人々への結核予防と結核治療を84歳まで行い続けた。日本人医師の後継者が来てくれたことで一旦日本に戻った。そして、ゆっくりと日本で過ごすのかと思っていたら、今はハンセン病の方々が住まわれている所や緩和ケア病棟で共に寄り添って生きる人々を支えている。インタビューで「いつ引退されるのですか?」と問われ「職業には引退がありますが、生き方に引退はありません。」と答えた。この言葉に私は心うたれた。病める人と共に生きて来られた伯母、45歳からハイチに渡り、初めてフランス語を覚えた。「語学をまず勉強しなければ人々と関われない。」と常に学び実践してきた伯母。まだまだ、女医さんの少ない時代、自由のきかない時代に生き方として医師をしてきた伯母の姿。病める人と共に生きるにはまだ未熟な私ですが、一生、学びだと思って残りの人生を生きていきたいと思う。関わる人、皆さん全てに精神療法と思えば、寄り添うこと、学ぶことは、実践可能だと思っている。

男性医師との間には、まだまだ医師として様々な場面で生きにくいが、勉強、学ぶ、と思えばひたむきに頑張れる。
生涯学び続けることが、医師として生きることだと改めて心に思う日々である。

2019年9月

2009-2013 Osaka Medical Women’s Association.